谷中公一のソコまで聞いちゃう!?[2012年10月3日対談記事]2ページ/3

橋本:(資料を見ながら)あー、僕も少しは稼いだんですね。

谷中:いや、かなり稼いでるよ!(資料を見ながら)この、ハッシーが55勝したときは俺も覚えているよ。もうノリノリでね。すごく覚えているのが、函館の調整ルーム。同じ3階だったんだよね。俺の斜め前がハッシーの部屋なんだけど、いつ見てもいないの(笑)。

橋本:確かに部屋にいませんでしたね。当時は、谷中さんが遊びに出るときに一人で行動されていて、そのロンリーウルフスタイルに憧れていたので、僕も一人で遊んでいました。

谷中:たまにみんなで集まって遊ぶのは良いんだけど、毎回は嫌だったの。結構ゴルフとか飲みに行くのとか、騎手同士でツルむ人たちも多かったんだよね。

橋本:そうですね。僕も毎回ツルむのは嫌だったので。谷中さんは遊びの師匠ですよ(笑)。

師匠と弟子の関係ですか(笑)。谷中さんは、橋本さんがデビューされた当時のことは覚えていますか?

谷中:うん。もう、ひたすら明るかったね。ハッシーは乗る方も凄かったし、私生活も凄かったから。これはデキる!と(笑)。やっぱり、デキる奴ってテンから光るものがあるんだよね。デビューしてから何年かは、そんなに遊んだりすることはなかったみたいだけど。

橋本:師匠の藤沢先生が厳しかったですからね。当時、藤沢先生は厩舎に住んでいたので、金曜日に競馬場へ行くとき「今週は何頭乗ります」って挨拶をして、日曜日も競馬が終わったら厩舎に帰ってくるんです。それで先生か奥さんに「今日の結果はこうでした」って報告をしてから休んで。デビューしてから2年ぐらいは、月曜日も必ず朝の作業に出なければいけなかったんです。

谷中:いや、俺、ハッキリ言って羨ましかったのよ、ハッシーが。朝の調教とか、土日も美浦に帰ってきて調教に乗ったり大変だったと思うけど、それでもレースに乗せてもらえて重賞も勝ってさ。それだけ勝っていればお金もあるだろうし、俺より楽しいロンリーウルフ生活を送っているんだろうな、コノヤロウ!と(笑)。

遊びの師匠の割りには、嫉妬心むき出しだったんですね(笑)。えー、橋本さんはロンリーウルフ生活も含めて、ジョッキー時代には様々な出来事があったと思いますが、振り返ってみて、ジョッキーをやって良かったなと思えることがあれば教えてください。

橋本:いろいろ楽しいことがありましたけど、そうですね…、競馬って、キングオブスポーツと呼ばれるくらいですし、全てのスポーツの中でもトップだと思うんですよね。なぜかというと、野球選手もやる、サッカー選手もやる、お相撲さんもプロレスラーも芸能人も、みんな競馬をやります。競馬の騎手っていうと、みんな見る目が違いますよね。

谷中:そうだね。

橋本:競馬の騎手というプロスポーツ選手になったことで、いろんな人脈が出来ました。たくさんの素晴らしい方たちと出会えたというのは、宮城の田舎から出てきたオラにとっては、凄いことだなと思います(笑)。

谷中:騎手をやっていたことで、普通ならなかなか会えないような人と知り合えたりするもんね。

橋本:でも、そうやって出会った人たちは、僕が騎手を辞めた途端、8割はいなくなりますね。で、残った2割が本当に大切な人たちなんだなっていうことが分かったのが現状です。これまで「ご飯を食べに行こうよ」と誘ってきた人たちが声をかけてくれなくなったりして。

谷中:「騎手・橋本広喜」に出会って付き合いが始まった人たちは、橋本広喜が騎手を辞めれば、ハッシーの周りからはいなくなるわけだよ。そういう人たちが大半だからね。肩書きは関係なく、ハッシーの本質、良さを分かってくれて残っている人が2割ぐらいで。

橋本:それで十分だな、と思います。その人たちは大切にしていきますよ。谷中さんも多分そうじゃないですか?いや、谷中さんは人柄が良くて、みんなの兄貴分みたいに慕われていたから、2割以上の人が残っているんじゃないですか?

谷中:いや、俺は10割消えたよ(笑)。2割も残れば贅沢だよ(笑)。でもジョッキー時代に出会えた人たちは財産だよね。

橋本:そうですよね。普通に生活をしていたら知ることが出来ない良い世界が味わえたかな、と。東京競馬場でも乗れたし、良かったです(笑)。

良い思い出がたくさんあるんですね。橋本さんは1991年3月1日にデビューされて、2003年10月31日に引退ということで、12年間のジョッキー生活を送られたわけですが、引退を考え始めたのはいつ頃だったんですか?

橋本:やっぱり一桁の勝ち鞍になった2002年頃ですね。その頃には体もキツくなってきましたからね。ローカルを回らないと食べていけないな、と思いましたけど、ローカルに行くには旅費がかかるし、お金がかかるんですよ。乗り数も減ってきて、ローカルに行くたびに赤字という状態が半年くらい続いて。落馬もありましたし、毎週減量して体はキツかったし、2年間くらい悩んで…。情けないんですけど。

谷中:ハッシーはさ、最後の方は体重が苦しくなっていたよね。

橋本:なかなか落ちなくて、しんどかったです。53キロのレースに乗るとき、せめて51.5ぐらいにしないといけないんですけど、普段から53キロあったんですよ。最初の頃は楽に50キロぐらいまで落とせましたけど、段々落とすのが辛くなってきて。あと、僕、石持ちだったんですよね。22歳のときに尿道結石になって、次に尿管結石、最後は腎臓結石になりました。石は慢性化するって言われていましたし、あまりの痛さに怖くなったので、石を体外に流すために水分をたくさん取るようにしたんです。それもあって、苦しかったですね。だから大変な減量をしている人たちは、本当に凄いと思いますよ。僕は、そこまでの根性はなかったです。

谷中:俺も経験あるけど、減量って本当に辛いもんね。

橋本:減量が気にならない頃は、元気良く追えていたんですよね。それに運もあるんでしょうけど、走らない馬でも、ある程度のところまでは持ってこれていましたからね。そういう変な自信があった頃もありましたけど、体が重くなって苦しくなってくると、競馬でも元気良く追えないんですよね。

谷中:そうだよね。

橋本:万馬券を出すことに生きがいを感じていた男だったので、人気がない方が燃えていたんですよ。どんなケツ人気の馬でも、万馬券を出してやるって思っていたのに、そういう自分ではないっていうのが…。他の人が乗ったときよりも前の着順に持ってくることが全然出来なくなっていましたし、これではせっかく乗せてくれている人たちに申し訳ないな、と。

谷中:やっぱりムチを置く瞬間って悩むよね。自分の理想はあるけど、現実としてやっていかないといけないっていうのが、身に降りかかってくるからね。それはキツいもんな。

橋本:で、最後の勝利のときですよ。中京で特別を勝たせてもらったんですけど、もう下手に乗って下手に乗って下手に乗って、最後ボンッと伸びて、馬に勝たせてもらったんです。これまでずっと、馬を導くのが騎手だと思っていたのに、導くはずの自分が馬に導かれて勝ったというショックが、ドーン!ときて。勝ったけど、そのときの表彰式では「ダメだな、これは。ダサ過ぎるな」っていう気持ちで…。ちょうどこのときに嫁さんと出会っていて「もういいんじゃない?」って言われて。勝たせてもらって馬には感謝なんですけど、馬に導かれて勝ったというショックで、もうステッキを置くしかないな、と。それで30歳で助手になりました。

谷中:最後の勝利をあげたレースで決断したんだね。

橋本:嫁さんも、騎手じゃない僕でも良いと言ってくれましたし、もう十分かな、と。引退して最初の頃、嫁さんから「あなたの金銭感覚を直す」って言われました(笑)。

谷中:確かに、いつまでもジョッキー時代の金銭感覚が抜けないと困るもんね。素晴らしい奥さんだね。

橋本:金銭感覚も直って、今、ちょうど第二の人生だと思って頑張っています。

ジョッキーから助手へ転身されて、競馬の見方が変わったりすることはありますか?

谷中 公一

1965年長野県生まれ。1985年、美浦の阿部新生厩舎の所属騎手として騎手デビュー。JRA通算成績145勝(うち障害3勝)。初騎乗は1985年3月10日にヤノリュウホウ(8着)。同年6月15日イチノスキーで初勝利。現役中に騎手生活の厳しい現実を綴った著書「崖っぷちジョッキー」を発表。現在は天間昭一厩舎の助手として活躍中。同厩舎ではレッツゴーキリシマやクラウンロゼなどを担当した実績もある。またその傍らドッグガーデン「WANだら~」経営者としても手腕を発揮している。

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